『かぐや姫の物語』における生と死の時空



【執筆者】
前島ウグイス


  【本文】

□はじめに

生きることは絶対的に肯定されなくてはならない。しかし、どうやって?

『かぐや姫の物語』は2013年に公開された高畑勲監督・スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画である。本論考では『かぐや姫の物語』のストーリーを、その時空間構成に注目して整理することで、本作が「生」と「死」をどのようにとらえ、いかに表現しているかを考察する。それを通して、本作の発するメッセージの今日性を明らかにしたい。


『かぐや姫の物語』のあらすじ

竹取の翁によって光り輝く竹の中から発見されたかぐや姫は、翁夫婦によって大切に育てられ、同年輩の子供たちとのびのび里山を駆け回り、楽しい幼少時代を過ごした。やがて美しい少女となったかぐや姫は、都に上り貴人の妻となることこそ娘の幸せと信じる翁の親心によって、都に上ることとなる。しかし、都で待っていたのは華やかでありながらしきたりと眼差しに雁字搦めにされる、窮屈な生活だった。
都に上がってしばらくして宴会が催されたとき、かぐや姫が御簾の陰に座っているとに下卑た男たちが「本物の高貴の姫君でもあるまいに」と好き勝手に揶揄する声が聞こえてきた。かぐや姫の怒りは爆発し、彼女は里山へ向かって疾走する。
あるとき、五人の位の高い貴公子が彼女に結婚を申し込んだ。五人はかぐや姫をこの世にあるとも知れぬ高価な宝物にたとえ、それぞれ熱烈にプロポーズする。かぐや姫は、五人が、彼女を一個の人格としてではなく単なる高価なアクセサリーとして扱ったことに怒り、それぞれに口にした宝物をもってくるよう要求する。五人の貴公子は本気になってかぐや姫に宝物を献上しようと努力するが、それによってみな自分の生活を壊してしまう。
五人の貴公子を手玉に取ったというかぐや姫の噂は、やがて帝の耳にも入ることとなる。帝はかぐや姫を宮中に女御として迎え入れようとするが、かぐや姫はこれも退ける。業を煮やした帝はかぐや姫の邸宅に忍んで行き、彼女を背後から抱きすくめる。そのとき、ついにかぐや姫に蓄積された痛みは限界に達した。「もうこんなところにはいたくない」――
その日からかぐや姫は毎夜月を見て物思いに沈むようになる。不審に思った翁夫妻が訳を尋ねると、かぐや姫は自分のほんとうの出自を語り始める。彼女は実は月の人で、今度の満月の夜には月の世界へ帰らねばならぬというのである。そして嘆くのだ。
「ああ、私は今まで何をしてきたのでしょう。私は、生きるために生まれてきたのに――
 月に帰らねばならなくなり、かぐや姫は最後にふるさとの里山を訪れる。そこで、幼馴染の捨て丸に再会する。生きる喜びと幸せの意味がようやくわかりかけたかぐや姫だったが、それはしかし遅すぎた。満月の夜、かぐや姫は月からの使者に天の羽衣を着せられ、地球でも記憶も感情も根こそぎ奪われて、月へと帰ってしまった。


『かぐや姫の物語』の空間

本作には大きく分けて(1)里山 (2) (3)月の世界という三つの空間が見出せる。
かぐや姫が生まれ育つ(1)里山は、生命に満ち、自然と人間の生活が渾然一体となった空間である。そこでの人間は自然と調和した生き物として、生の喜びを堪能する存在だ。
原作の竹取物語では、かぐや姫が竹から生まれた後どの様に成長したかはほとんど描かれない。だが映画は里山の自然とともに赤ん坊のかぐや姫がグングン育つ様子を、時間を割いて丁寧に描写している。それは、「ふるさと」である里山がかぐや姫の中に消し難く刻み込まれていくさまでもある。藤津亮太は本作を「ふるさと」をめぐる物語だとしてこのように述べている。

この風景はじつはたけのこだけのふるさとではない。この里山は「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが」で始まる、あらゆる昔話の舞台となりうる場所だ。そういう意味で、この風景はたけのこにとってのふるさとであると同時に、昔話を知る人間にとっても広くふるさとなのだ。たけのこが過ごす子供時代は、観客がその里山をふるさとだと思い出すための時間でもある。[1]

この里山=ふるさとは、現代に生きる私たちにとってそうであるように、ある種のユートピア的な空間でもある。都は、里山育ちの彼女にとっては耐え難いものだった。そこで彼女は苦痛から逃れるために里山へ帰ろうと試みるが、後述するようにその度に自分はすでに里山の住人ではないことを思い知らされるのである。

思春期を迎えたかぐや姫に用意された空間である(2)都は里山とは全く異なり、高度に社会化され、様々な意味不明の規範に貫かれた空間である。
また、都で「高貴の姫君」として生きるということは、常に品定めされ、「見られる」存在になるということである。彼女は男たちの視線にさらされ、ある時は「偽物」「成金」と卑しめられ、またある時は絶世の美女、すなわちやんごとなき殿方に獲得されるべき「宝物」として祭り上げられる。そこには彼女の主体性の介在する余地はない。
ここで注目すべきは都におけるかぐや姫の心のバランスのとり方である。彼女は初めのうちは里山へ帰ろうとするが、それは叶わない。そこで庭にミニチュアの里山をつくり、心を慰めようとする。しかしそのような「ここではないどこか」を求めるメンタリティは、けっきょく「偽物」であるとして否定される。それは一見誠実に「ともに『ここではないどこか』を求めよう」とかぐや姫に呼びかけ、彼女と共鳴するかに思われた石作皇子の言葉が、実は「偽物」だと露呈してしまうことからもわかる。そして五人の貴公子が皆不幸になったことを知らされたとき、かぐや姫は自ら作り上げたミニチュアの里山を滅茶苦茶に壊してしまう。そんなものは「偽物」だし、偽物に満足を求めてきた自分自身もまた「偽物」だということに絶望して。

(3)月の世界は、映画では直接には描写されない。かぐや姫による短い回想シーンと、迎えに来る月からの使者たちの様子からぼんやりと示唆される程度である。しかしこの月の世界が、死後の世界であることは疑いようがない。この場面で月からの使者の姿に「二十五菩薩阿弥陀来迎図」がそっくりそのまま引用されているのは、月の世界=浄土であることをはっきり示している。
では、月の世界=浄土とはどんなところなのか。
最初に月の世界が示唆されるのは、都から里山へ疾走してきたかぐや姫が生気を失った里山で雪原に倒れこむシーンである。このシーンを木村朗子はこう解釈する。

世界が灰色に腐敗してしまったかのような景色。生命の手がかりを失った姫は、降り出した雪の上に倒れ込む。ここで姫が意識を失う直前に、この景色を知っているとつぶやくのはなぜだろう。倒れた姫を天人たちが見守っている意味は何か。のちにその天人たちは阿弥陀如来とともに天からやってくるのだから、この場面は姫がこの世に送り返されることとなった前世の記憶ととれる。[2]

また、月の記憶を取り戻してからの回想シーンでは、色彩のない月の世界にいる天女の姿が映し出される。
これらのかぐや姫の回想からは、月の世界を、モノクロを基調とした色彩に乏しい空間だと考えることが出来る。それは、月の人々には穢れた感情もなく、清浄だが無感覚・無感動であるという点からしても、一見説得的であるかもしれない。
しかし、そうなると理解しづらいのは月からの迎えのシーンである。それまでに示された月の世界に対するかぐや姫の印象と違って、実際の月の人々は場違いなほどポップな音楽を奏で、サイケデリックな色彩をもって気狂いじみた陽気な雰囲気を発散している。この奇妙なズレをどう考えればいいのか。
異様なほどに過剰な色彩や音が氾濫し、にもかかわらず、いやそれ故にこそ無感覚・無感動で印象に乏しい空虚な空間――。じつは、私たちはこの空間を知っているのではないだろうか。そう、いつものショッピングモールへ出かけてみれば、こんな光景はいつでも見ることができる。この空間においては誰も皆、まるで天の羽衣をまとっているかのように、痛みを感じない。ここではカネさえあれば痛みを感じずに済むのだ。そしてテクノロジーや最新の商品が与えてくれる様々な刺激を条件反射的に追いかけ続け、生気のない身体の群れと化す。ショッピングモール的空間の中では、私たちは生きている人間を見つけることができない。私たちはもしかすると、死の空間を生きているのではないか?

このような状態を、藤田省三は「安楽への隷属」と呼んだ。藤田は「抑制のかけらもない現在の『高度技術社会』を支えている精神的基礎は何だろうか」と問い、自ら答えて言う。「それは、私たちに少しでも不快な感情を起こさせたり、苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃してしまいたいとする絶えざる心の動きである。」[3]

むろん安楽であること自体は悪いことではない。[]しかし、或る自然な反応の欠如態としての「安楽」が他の全ての価値を支配する唯一の中心価値となってくると事情は一変する。それが日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると心の自足的安らぎは消滅して、「安楽」への狂おしい追求と「安楽」喪失への焦立つ不安が却って心中を満たすこととなる。
こうして能動的な「安楽への隷属」は「焦立つ不安」を分かち難く内に含みもって、今日の特徴的な精神状態を形作ることとなった。「安らぎを失った安楽」という前古未曾有の逆説が此処に出現する。[4]

「安楽への隷属」が支配する空間では、「喜び」は消滅する。喜びとは、一定の不快・苦痛の試練を潜り抜けた時に獲得される感情だからである。この状態を、藤田は「血色よく死んでいる状態」とし、「この逆説的な、豊頬を湛えた死体こそが現代型健康の支配的形態なのではないか」[5]と述べる。月の世界はまさにそのような空間として描かれているのではないだろうか。


□『かぐや姫の物語』の時間

また里山、都、月の世界という三つの空間は、時間の概念にも対応しているのではないかとも思われる。すなわち里山を失われた昔話のふるさと=過去のユートピアとするなら、月の世界は私たちの社会が向っている末路としての未来のユートピア(=ディストピア)である。そして都は、かぐや姫が様々な痛みを感じながら里山へ帰りたいとか月へ帰りたいと「ここではないどこか」を求めて揺れ動く、苦悩と葛藤の現在を表象しているのではないだろうか。

里山を去り都での生活を始めたかぐや姫は、はじめこそ大きな屋敷や美しい着物に興奮し喜ぶが、「高貴の姫君」に仕立て上げられることは拒否しようとする。しかし抗いきれず、都を捨てて里山へ帰りたいと願うようになる。ついには裳着の儀の夜、里山に向けて疾走するが、そこは草木も木地師たちの姿もなく、かつてのたけのこを育んだふるさとではなくなっていた。ふるさとは失われた、もはやふるさとへ帰ることはできない。それからのかぐや姫にあるのは諦めの感情である。眉を抜き、お歯黒を塗り、「高貴の姫君」として生きることを徐々に受け入れていく。しかしそのような「耐える」生き方を選択したことで、かぐや姫には少しずつ痛みが蓄積されていく。そして帝に後ろから抱きすくめられた瞬間、それは限界に達してしまった。「ふるさと」はすでに失われ、都の生活にも耐えられない――その時「痛み」そのもののない月の世界が、もう一つのユートピアとして立ち現われてしまったのだ。痛みを限界まで引き受けてしまった者は、無痛のユートピアを、自分でも抗いがたい強さで引き寄せてしまうのではないだろうか。
しかし、物語はそこで終わらない。もともと月の世界から来てその味気なさや虚しさを骨身に沁みてわかっているかぐや姫は、みずから呼び寄せてしまった月へと帰る運命をも嘆いて言う。「私は今まで何をしてきたのでしょう。私は、生きるために生まれてきたのに」。
地上での最後のひと時に、かぐや姫はもう一度ふるさとの里山を訪れる。ちょうど、木地師で幼馴染の捨丸も里山に帰ってきたところだった。二人は再会する。かぐや姫は言う。捨丸となら幸せになれたかもしれない。「生きている手応えさえあれば、幸せになれた」。それを聞いた捨丸は今からでもすべてを捨てて逃げようと言う。里山での飛翔シーンは、「この世は生きるに値する」というメッセージを強烈に湛えている。それは、かぐや姫がふるさとという過去のユートピアを不可能なものとして断念し、自分が引き寄せた未来のユートピアをも拒否し、「ここではないどこか」を夢見ることをやめた瞬間に、自分が生きている「いま・ここ」が生きるに値するものとして強烈に輝き始めるということのこれ以上ない表現である。

□『かぐや姫の物語』の悲劇と祈り

しかし、生の手ごたえをつかみかけたところで、それはもはや遅すぎた。かぐや姫は月の世界へ向かう運命を押しとどめることはできない。
それはこの映画のもつ限界でもある。
「この世は生きるに値する」というメッセージを説得力ある形で示すものの、ではどうすれば生きる手応えが得られる空間を手に入れられるのか? という問いに、この映画は答えていない。二人の喜びを表現した見事な飛翔のシーンも、空間の描き方としては非常に抽象的であるし、結局は捨丸の夢として描かれているにすぎない。すべてを捨てて逃げようといっても、どんな所へ逃げればよいのか。その空間を描き得ない以上それは「夢オチ」に着地するしかないのだ。里山=ふるさとというユートピアも否定し、月の世界=無痛のユートピアも否定し、「ここではないどこか」を夢想し続ける都の生活をも否定し、生きている手応えがあれば幸せになれるとはいうものの、では「生きる手応えを得ることが可能な空間」はどんなものか、どうすればそういった空間を手に入れられるのか?
その空間を見つけることができなかったから、かぐや姫は月の世界へ行くしかなかったのだ。

かぐや姫の物語は悲劇である。私たちもまた、かぐや姫と同じ悲劇の道をたどっている。どうすればかぐや姫を救えたのだろうか? この物語に希望はあるのか? この絶望的なまでに困難な問いを、私たちは考えなければならない。私たちのほとんどはすでに天の羽衣を着てしまっているのだ。それは私たち自身が望んでしまったことでもある。

まわれ めぐれ めぐれよ はるかなときよ
めぐって心を呼び返せ
めぐって心を呼び返せ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けをはぐくみて
まつとしきかば 今かへりこむ

劇中で繰り返し歌われる「天女の唄」(「わらべ唄」)は、かつて地上にいたという天女が、記憶と感情の何もかもをなくしてもなお覚えていたという唯一の記憶である。月の世界へ行ってしまっても、天の羽衣というテクノロジーに包まれて記憶も感情もなくしてしまったとしても、生命に深く刻まれた消すことのできない記憶がある――。この唄が不思議に私たちの心を打つのは、心を失ってしまった私たちの奥深くに眠っている、生命の記憶を呼び覚まそうとするものだからではないだろうか。だとすれば、その記憶をしっかりと捕まえることができればあるいは、かつてのかぐや姫がそうだったように、生きている手応えのある地に降り立つことができるのかもしれない。
そのかすかな希望への祈りのように、赤ん坊のころのかぐや姫の姿が月面に映し出されて、物語は幕を閉じるのである。



[1] 藤津亮太「たけのこの『ふるさと』」、『ユリイカ』638号、201321月号、183-184
[2] 木村朗子「前世の記憶」『ユリイカ』638号、201321月号、102
[3] 藤田省三『藤田省三セレクション』平凡社、2010年、387-388(初出:1985)
[4] 藤田省三『藤田省三コレクション』390
[5] 藤田省三『藤田省三コレクション』379(初出:1982)

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