中島みゆき「空と君とのあいだに」は誰もいない



ちょっと前に森田童子(ご冥福をお祈りします)の「ぼくたちの失敗」の解釈を書いたのがほどほどに好評で、友人のT君に中島みゆきの歌詞の解釈も書いてほしいと頼まれた。ファンを大事にする男すがやとして、今回は中島みゆきの歌詞の解釈に挑戦したい。



中島みゆきは歌詞の解釈遊びが難しい書き手だ。
解釈遊びをするためには当然さまざまな解釈ができることが条件になる。例えばスピッツのチェリーは「失恋の歌だ」とか「童貞卒業の歌だ」とか「スピッツ自身を歌っているんだ」など、さまざまな解釈があって楽しい。ところが、中島みゆきの詩は解釈を与えてくれるというよりは、事実を告げられるというようなイメージがある(少なくとも僕はそうだ)。

中島みゆきの歌詞の解釈は難しい。難しいのだけど、何とかこの難題を解決したいと考えた。歌詞検索をしまくった。そして、ついに解釈遊びができそうな歌を見つけた。

それが「空と君とのあいだに」である。





「空と君とのあいだに」は1994年に発表された。「ファイト」との両A面シングルという、超豪華盤だ。

アラサー以上であれば「空と君とのあいだに」と一緒に思い出すのは、安達祐実の出世作「家なき子」だろう。「空と君とのあいだに」は「家なき子」の主題歌として使われていた。

「家なき子」を知らない人のために簡単にストーリーを紹介すると、安達祐実演じるすずが、毎回ひどい仕打ちを受けつつそれに耐えて、努力の甲斐があり光が差しそうになりながらも最終的にやっぱり一人ぼっちの家なき子になるというストーリーだ。安達祐実の健気に逞しく生きる姿がお茶の間の涙をさそい、「同情するなら金をくれ」というすずのセリフは流行語大賞にも選ばれた。なんと最高視聴率は37.2パーセント、90年代を代表するドラマのひとつだ。

そして、この「家なき子」と「空と君とのあいだに」は絶妙にマッチしている。「空と君とのあいだに」の特に1番は「家なき子」全12話を要約したような内容になっている。





「空と君とのあいだに」はこのようにはじまる。

君が涙のときには僕はポプラの枝になる

サビはこうだ

君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる

歌詞の始まりとサビを見ればわかるように「君」には絶対的な味方の「僕」がいる。「君」が涙の時はポプラの枝になるし、「君」に笑ってもらうためには悪にだってなってみせる。

「僕」は「君」にとってのいわば母的存在だ。
なお家なき子では、すずの母親はずっと病気で入院していて最終話で死んでしまう。作中、すずはどんなにつらいことがあっても母の前では母を心配させないために気丈に振る舞う。すずにとって母的存在は不在だ。

一見応援ソングに見える「空と君とのあいだに」も実は母的存在の不在を歌っている。全然応援ソングではない。応援の言葉の前後に必ずもっと強い打消しが入っている。


ポプラの枝になる→孤独な人につけこむようなことは言えない=ポプラの枝になれない

笑ってくれるなら悪にでもなる→空と君と間には今日も冷たい雨が降る=悪になって笑わせていない


「空と君とのあいだに」の特に1番では「僕」はさまざま助けになるような素振りを見せつつも実際のところは「君」にとっては無力な存在だ。では、なぜ「僕」が無力な存在なのかと言うと「君」に責任があるんじゃないかとも読み取れる。悪いのは「君」だ。この辺りから解釈遊びははかどる。

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「空と君とのあいだに」の1番にはこういった歌詞もある

君を泣かせたあいつの正体を僕は知ってた
ひきとめた僕を 君は振り払った 遠い夜

「僕」は知っているのである。「君」を苦しめる正体を、そして「君」の助け方を。しかし、ひきとめた「僕」を振り払ったのは「君」なのだ。

そして歌詞はこのように続く

ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ いつまでも

「僕」は「君」を泣かせる正体を知り、振り払われた後でも、それでもなおまだ「君」を待っている。「僕」は動くことはしないけれど、「君」が訪れるならポプラの枝になるし、悪にでもなる。つまり「君」が適切な行動をすれば「君」は幸せになれるのだ。

「君」が涙を流すのも、笑えないのも、冷たい雨が降るのも、全て「君」の言動が悪い。
冷たく見ればそう解釈できる。




「空と君とのあいだに」の「僕」の無力は当時の視聴者の感情と被るところが大きい。すずちゃんを助けたい、けれど助けることができない。なぜならブラウン管の中の出来事だからだ(当時はブラウン管だ)。この無力感が「家なき子」と視聴者をいい感じに結びつける。

案外、中島みゆきはすずの言動に対して、視聴者よりも冷めた視線で歌詞を書いたのかもしれない。ただの応援ソングを書くよりも、突き放した曲の方がこのドラマとマッチするのではないかと思っていたのかもしれない。そして実際によくマッチしており、CDは140万枚以上売れている。

ところで「家なき子」は、今ならどのように見えるだろう。
小学生なのに気を張ってがんばるすずちゃんはお茶の間に好意的に受け入れられるだろうか。自己責任だと、もっと上手に立ち回れと、批判されないだろうか。空と君とのあいだには、何もなくて当然だ、冷たい雨だって降るだろう、だって「君」が悪いんだから。こう思うのではないだろうか。

中島みゆきは意識的に空と君のあいだを不在にして冷たい雨を降らせ、その不在を視聴者の暖かい視線や応援で埋めた。しかし今では不在のままにただただ冷たい雨が降るだけかもしれない。逆説的に仮に今、中島みゆきさんが「家なき子」の主題歌を手掛けることになったら、包み込むような応援ソングを書くかもしれない。

というようなことを考えるのが歌詞の解釈遊びの醍醐味である。



文責 菅谷圭祐

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