投稿

2018の投稿を表示しています

中島みゆき「空と君とのあいだに」は誰もいない

イメージ
ちょっと前に森田童子(ご冥福をお祈りします)の「ぼくたちの失敗」の解釈を書いたのがほどほどに好評で、友人のT君に中島みゆきの歌詞の解釈も書いてほしいと頼まれた。ファンを大事にする男すがやとして、今回は中島みゆきの歌詞の解釈に挑戦したい。 中島みゆきは歌詞の解釈遊びが難しい書き手だ。 解釈遊びをするためには当然さまざまな解釈ができることが条件になる。例えばスピッツのチェリーは「失恋の歌だ」とか「童貞卒業の歌だ」とか「スピッツ自身を歌っているんだ」など、さまざまな解釈があって楽しい。ところが、中島みゆきの詩は解釈を与えてくれるというよりは、事実を告げられるというようなイメージがある(少なくとも僕はそうだ)。 中島みゆきの歌詞の解釈は難しい。難しいのだけど、何とかこの難題を解決したいと考えた。歌詞検索をしまくった。そして、ついに解釈遊びができそうな歌を見つけた。 それが「空と君とのあいだに」である。 「空と君とのあいだに」は1994年に発表された。「ファイト」との両A面シングルという、超豪華盤だ。 アラサー以上であれば「空と君とのあいだに」と一緒に思い出すのは、安達祐実の出世作「家なき子」だろう。「空と君とのあいだに」は「家なき子」の主題歌として使われていた。 「家なき子」を知らない人のために簡単にストーリーを紹介すると、安達祐実演じるすずが、毎回ひどい仕打ちを受けつつそれに耐えて、努力の甲斐があり光が差しそうになりながらも最終的にやっぱり一人ぼっちの家なき子になるというストーリーだ。安達祐実の健気に逞しく生きる姿がお茶の間の涙をさそい、「同情するなら金をくれ」というすずのセリフは流行語大賞にも選ばれた。なんと最高視聴率は37.2パーセント、90年代を代表するドラマのひとつだ。 そして、この「家なき子」と「空と君とのあいだに」は絶妙にマッチしている。「空と君とのあいだに」の特に1番は「家なき子」全12話を要約したような内容になっている。 「空と君とのあいだに」はこのようにはじまる。 君が涙のときには僕はポプラの枝になる サビはこうだ 君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる 歌詞の始まりとサビを見ればわかるように「君」には絶対的な味方の「僕」がいる。「君

9歳者

イメージ

フアンアート

イメージ

細田守 vs メロドラマ(『おおかみこどもの雨と雪』評)

  他律神経  以下の文章で私は、細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』にメロドラマとメロドラマへの抵抗の両方が同時に見て取れることを明らかにしよう。「同時に」。そうしたメッセージの二重性、複数性が映画の豊穣さ、「映画」をプロパガンダから区別するものだと思うが、そうした議論はここではしない。  映画のタイトルからわかるとおり、この映画は「おおかみこども」の雨と雪を巡る物語であるが、それにしても、「おおかみこども」というものについては絶対に説明が必要であるし、その説明を兼ねて、この映画の粗筋をまず書くことにしよう。  後に雨と雪を産む、その母であり、つまり主人公の一人である「花」は東京の外れにある国立大学に通う大学生である。これは明示されないが、その建築物などから、東京大学であることが黙示されている。これは重要なことだ。彼女は、いわばそこらの普通の男性よりも、相対的に高位な階層にアクセスする権利を有しているということだからである。さて彼女は講義に潜り込んでいた男性の「彼」と出会い、恋に落ちる。ここまでは我々の現実の延長であるが、しかし実は「彼」はニホンオオカミの末裔であり、人間の姿と四足歩行する自然主義的に描かれる狼の姿の二つを自由にとることができる存在であることが明かされる。それでもなお花は「彼」を受け入れ、ついに花は「彼」の子どもを姙娠することになる。その子どもこそ雨と雪であって、この二人もまたその父と同じ特性を有しており、それゆえ父が「狼男」であるのに対し彼らは「おおかみこども」となる。しかし物語が欠如と欠如の回復、混沌と秩序の構築によって構成されているからには、この家庭にも影が忍び寄ってくる。ある日、「彼」がいつまでたっても帰ってこないという事態が起きる。花は「彼」を探しに行くが、「彼」は狼の姿になって河の中で死んでいる。その直接の原因は明確にされない。とにかく「彼」は狼であるから、その「死骸」はゴミ収集車のような物で運び去られてしまう。かくして花と雨と雪は「父」を喪失することになる。物語が駆動し始める。  この「父」を喪失した、ファンタジックな家族がいかに父無き後に秩序を構築するか、ということがこの映画の主題になるわけであるから、まさしくこれはメロドラマということになるだろう。ここで私はあえて、誰か

aikoの歌手デビュー20周年は「湿った夏の始まり」

イメージ
aikoがニューアルバム「湿った夏の始まり」を発売した。 発売されたものの、僕はまだこのアルバムを買っていない。 でも大丈夫、僕くらいのaikoジャンキーになるとアルバムのタイトル名だけでしばらく楽しめる。 「湿った夏の始まり」というタイトルはなかなかおもしろい。 過去のaikoは誰にでもわかりやすいアルバムタイトルをつけることが多かった。具体的にはデビュー初期の「桜の木の下」「夏服」、中期には「夢の中のまっすぐな道」「彼女」「秘密」などがある。 今回のアルバムタイトルの一部になっている、"湿った夏"は人によって抱くイメージの違いが大きい。 "湿った夏"、例えば恋人と夏の始まりにわかれてしまって一人ぼっちだったなど、を過ごしたことがある人であれば「あの夏に近いものだ」と具体的に思い出せる。しかし、"湿った夏"を過ごしたことがない人には距離がある言葉だ。ただ湿気が多いだけの夏のイメージということもありえる。"湿った夏"というワードの重みは、各々の人生経験、恋愛経験で異なる。 aikoは言葉選びがとても上手いので意識的に"湿った夏"と使ったのではないかと思う。aikoの言葉選びは特定の「あなた」に向けたものと、多くの「みんな」に向けたものにわけることができる。「あなた」に向けたものとして、例えば 『ぶったりしてごめんね 愛しくて仕方がなかった』(えりあし) などがある。なぜ愛しくてぶつのか、僕には全く意味がわからない。しかし、誰かの「あなた」の心にはピタリとはまる。 多くの「みんな」に向けたものでは、例えば 『灼けた指輪の跡が印す 想い出の色に あなたを思うだけの強さを私はもらった』(向かいあわせ) などがある。指輪が灼けたことがなくても、想い出がなくても、なんとなく素敵な歌詞だと心にしっくりくる。 aikoはこのように、特定の「あなた」の心にピタリとはまる言葉選びと、大体の「みんな」がいいなと思う言葉選びの両方ができる(余談として、この両方をバランスよく配球できる点がaikoの素晴らしいところだ)。aikoの過去のアルバムタイトルは後者の「みんな」に寄せたパターンが多かった。しかし、今回はかなり前者に寄

第2次「焚き火台」カンパ(6/1)の結果報告

イメージ
0.執筆者   他律神経 1.この記事の目的  ソーシャルカンパサービス「Kampa!」( https://kampa.me/ )で行った,「焚き火台購入」を理由とするカンパ募集の結果について報告する. 2.カンパ募集の内容  詳細は  https://kampa.me/t/ogj   参照.  使途は焚き火台の購入であると,Twitter上にも書いていた.  返礼については,6/12の焚き火会における焚き火の直ぐ側で私が接待するということにした。おもてなし。裏はある。 3.カンパの結果  上記「Kampa!」を用いてではなく、それを見た遠方の友人からメールを用いてアマゾンギフト券をいただいた.感謝. 1 ¥1850 2018-06-01 合計  ¥1850  これと前回の100円分のカンパを使って、いよいよ焚き火台を購入した。送料は無料ではなかったが、本当にどうしても他に買いたいものが思いつかなかったため、送料は自分で支払った。 4.カンパへの返礼  アマゾンギフト券はメールを使って送ることが可能で、メッセージも添付できるのだが、それによると「接待は必要ない」とのことであったので、今回は返礼はない。 5.まとめ  2回に分けてカンパを募ったが、いよいよ焚き火台を購入することができた。6/12は河原に集合。以上です。

『かぐや姫の物語』における生と死の時空

【執筆者】 前島ウグイス   【本文】 □はじめに 生きることは絶対的に肯定されなくてはならない。しかし、どうやって? 『かぐや姫の物語』は 2013 年に公開された高畑勲監督・スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画である。本論考では『かぐや姫の物語』のストーリーを、その時空間構成に注目して整理することで、本作が「生」と「死」をどのようにとらえ、いかに表現しているかを考察する。それを通して、本作の発するメッセージの今日性を明らかにしたい。 □ 『かぐや姫の物語』のあらすじ 竹取の翁によって光り輝く竹の中から発見されたかぐや姫は、翁夫婦によって大切に育てられ、同年輩の子供たちとのびのび里山を駆け回り、楽しい幼少時代を過ごした。やがて美しい少女となったかぐや姫は、都に上り貴人の妻となることこそ娘の幸せと信じる翁の親心によって、都に上ることとなる。しかし、都で待っていたのは華やかでありながらしきたりと眼差しに雁字搦めにされる、窮屈な生活だった。 都に上がってしばらくして宴会が催されたとき、かぐや姫が御簾の陰に座っているとに下卑た男たちが「本物の高貴の姫君でもあるまいに」と好き勝手に揶揄する声が聞こえてきた。かぐや姫の怒りは爆発し、彼女は里山へ向かって疾走する。 あるとき、五人の位の高い貴公子が彼女に結婚を申し込んだ。五人はかぐや姫をこの世にあるとも知れぬ高価な宝物にたとえ、それぞれ熱烈にプロポーズする。かぐや姫は、五人が、彼女を一個の人格としてではなく単なる高価なアクセサリーとして扱ったことに怒り、それぞれに口にした宝物をもってくるよう要求する。五人の貴公子は本気になってかぐや姫に宝物を献上しようと努力するが、それによってみな自分の生活を壊してしまう。 五人の貴公子を手玉に取ったというかぐや姫の噂は、やがて帝の耳にも入ることとなる。帝はかぐや姫を宮中に女御として迎え入れようとするが、かぐや姫はこれも退ける。業を煮やした帝はかぐや姫の邸宅に忍んで行き、彼女を背後から抱きすくめる。そのとき、ついにかぐや姫に蓄積された痛みは限界に達した。「もうこんなところにはいたくない」 ―― 。 その日からかぐや姫は毎夜月を見て物思いに沈むようになる。不審に思った翁夫妻が訳を尋ねると、かぐや姫は