ふしだらな女の生/性について、あるいは労働に関する極私的物語



【執筆者】
 前島ウグイス


【本文】
 セックスワークは究極の「ピンクカラー労働」である。SWは「癒し」を提供する「究極の接客業」であると言われる。たしかにセックスは再生産労働である。感情労働である。しかも「愛」の名のもとに最も神秘化された不払い労働である。「セックスは愛の行為である」というのは、セックスを「愛」の中に閉じ込めておきたい家父長制の神話であり、イデオロギー=虚偽意識だ。セックスを生業とし、賃金労働としてのセックスを行う者であるところのセックスワーカーは人間の最下層に置かれる。その不安定で危険な労働環境を改善する動きもその必要性も認知されない。なぜなら彼/女は家父長制的な「愛」の神話を冒涜する(脱神話化する)存在であるからだ。[1]またセックスは他の家事労働と同じように、家庭内で無償で行われる。それゆえSWは「誰にでもできる」仕事とされ、まともな仕事として認知されない。女の解放と家事労働の再評価が不可分であるならば、SWをまともな仕事として社会に認知させることもまた、女の解放にとって不可欠であるはずだ。私たちは言わなければならない。「セックスワークは仕事だ」と。しかし、どうやって?

 「セックスワークは仕事だ」Sex work is WORK.「セックスワーカーの権利は人権だ」Sex worker's rights are human rights.というスローガンは、家父長制を転覆する。セックスワークは「セックス=愛」の神話を冒涜する、家父長制にとって危険なものである。それゆえこの仕事は女解放のための潜勢力を有している。すぐに「しかしセックスワークを要請し成立せしめているのも家父長制ではないか」という声が聞こえてきそうだ。たしかに、第二波フェミニズムは婚姻制度を分断線とする女の統治構造を看破した。すなわち、婚姻内の女は「妻・母」役割を担わされ、そのセックス(あるいは性的身体)は生殖に結び付くまともなものとして祝福される。一方婚姻外の女は「売女」であり、そのセックスは不真面目ないかがわしいものとして迫害される。いずれにせよ、あらゆる女は婚姻制度を分断線として男との関係によって評価されるという点において、「同じ穴のムジナ」だ。男は「自分の子供」を欲するとき婚姻制度内の女と関係し、性欲を満足させたいときには婚姻制度外の女と関係する。(なんと男に都合の良い仕組みか!)
 だとすれば、家父長制の用意する婚姻制度こそわたしたちの敵だ。女解放のために、婚姻制度を解体せよ。どうやって? 婚姻制度の無い世界、婚姻制度に分断されない女のセックスが存在する世界を想像してみよう。最も周縁化された女の場所から。つまり、セックスワーカーの生/性を根拠地にして。

 セックスは家庭内で不払で行われているので、SWは「誰にでもできる簡単な仕事」とみなされる。なぜセックスは不払いなのか。「セックスは愛の行為である」という家父長制の虚偽意識を守るためである。金と引き換えに性的サービスを提供するSWたちには、したがって、二つの矛盾しながら補完しあう烙印が押される。すなわち彼/女は社会の<犠牲者>でありかつ<敵>だ。ある慈悲深い者はこう言うだろう。SWは結婚という女の幸せを得ることに失敗し、貧困に陥り、しかたなく劣悪な仕事をしている、恵まれない可哀そうな人々であり、何としても救い出してやらねばならない。ときには救いの手を拒否するSWもいる。しかし彼女らは教育を受けていないので、自分がしていることを分かっていないのだ。我々は無知蒙昧な彼女たちに自分のしていることのおぞましさを教えてやらなければならない。そして別の者はこう言う。セックスワークは「愛」を金で売買するおそろしい、汚らわしい行為である。また、やつらは「(脱ぎさえすれば、股を開きさえすれば)誰にでもできる簡単な」仕事で、男から大金をせしめている。SWは「セックス=愛」という家父長制の神話を揺るがし、資本主義労働市場の秩序を揺るがすのだ。やつらは安全な社会秩序を危険にさらす、恐ろしい社会の敵だ! やつらを何としてもこの街から追い出さなければならない。

 そうしてSWは薄暗く危険な路地裏に追いやられていく。いかがわしい場末のホテルで、特殊浴場で、SWが死んでいく。[2]彼/女のことを誰も知らない。彼/女の死は悲しまれない。この世界には悲しまれる死と悲しまれない死がある。悲しまれない死とは、遺棄された生の終わりである。セックスワーカー。最も周縁化され、奪われ、尊厳が損なわれた生。誰も彼/女の安全や、誇りや、喜びについては語らない。遺棄された人々。それが彼/女に用意された配役なのだ。

 Sex work is workというスローガンは、この支配的物語を書き換える、私たち自身の新しい物語の冒頭の句として屹立している。

 例えばある架空の「私」の場合について考えてみよう。「私」は料理が好きだ。自分のため、あるいは好きな人々のために料理すること、そして作った料理を(一人で、或は好きな人々と)楽しむことは「私」の喜びであり、彼らへの愛情の表現である。そのような時間は「私」の生きる喜びの源であり、また生のよろこびそのものでもある。「私」はレストランで料理人として働いている。「私」がつくった料理はおいしいと評判である。客は「私」の料理を楽しみ、喜んで金を払う。その金をもって今日も「私」は家に帰る。帰り道、スーパーで野菜を買う。「私」はこの仕事に誇りを持っている。

 この語りにまったく共感できない人は少ないはずだ。あなたにとって「料理」は「研究」かもしれない。「絵を描くこと」かもしれない。「歌を歌うこと」かもしれない。「子供の世話」かもしれない。「セックス」かもしれない! 生きることには金が必要で、私たちは毎日好きなことやそれほど好きでもないことをして金をつくり、日々生きている。セックスワーカーもその一人だ。当たり前のことだ。 (私はときどき、「料理は家庭内で行われる愛の行為なんだから、金をもらって料理を提供するなんて汚らわしい!ふしだらだ!」という人を想像してみる。SWはふしだらだ!という非難は、私にはそのような奇妙なレトリックとしてしか響かない)
 
 もう少し「私」の状況について考えてみる。もし客やレストランが正当な賃金を払わなかったら? 上司や客からハラスメントされたら? 職場の防火設備が整っておらず、つねに火災の危険にさらされているとしたら? もちろんそれは問題だ。だからといって「私」は恵まれない無知で哀れな存在で、あなたがたマトモな人たちによってこの仕事から救い出されなければならないということには、ならない。それはあまりにも敬意を欠いている。もしあなたが本当にSWをサポートしたいのならば、まずSWを人間として、労働者としてリスペクトすべきだ。料理人が「誰にでもできる仕事」ではないように、SWも「誰にでもできる仕事」ではない。
 性的サービスがこんなふうに「ふつう」の仕事のひとつとして語られる社会を想像してみよう。[3]SWの経験を、「ふつう」の仕事として「いま、ここ」で語る。その語りこそが(いつか到来するユートピアではなく)つねに・すでに起きている革命の経験を産出するのだ。(神話を破壊しろ。私/たちの物語を語るための空間を創出せよ。)



[1] セックスワーカーは女だけではない。この社会にはSWで生活する男性もトランスも存在する。
[2] 20171217日埼玉県さいたま市大宮区の風俗ビルで火災が発生し7名が負傷、5名が死亡した。風俗店で発生した火災としては最悪の被害となり、風俗店施設の老朽化の問題などがクローズアップされた。NHKTBSでは死亡した女性の実名が報道された。
「死者5名の大宮風俗店火災。献花台で手を合わせる男性利用者たち「地元では貴重な名店だった」」(https://nikkan-spa.jp/1441208)
「大宮のソープ火事で12人死傷 119番「煙が充満して逃げられない」」(http://www.hochi.co.jp/topics/20171218-OHT1T50046.html)
「大宮風俗店火災に全国の歓楽街で働く人々が震撼した事情」(http://blogos.com/article/268667/)(いずれも最終アクセス2018.5.12)
[3] 逆に、こんな風に言うこともできる。「すべての労働は売春である」J・L・G

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