「ぼくたちの失敗」の「たち」とは誰なのか

「ぼくたちの失敗」という非常に中毒性の高い歌がある。
森田童子が歌い、ドラマ高校教師の主題歌として脚光を浴びた。発表されたのは1970代だが、世間に広く知られるようになったのは1990年代以降という珍しいタイプの歌だ。








「ぼくたちの失敗」の「たち」とは誰のことを指しているのだろうか。気になったので、整理してみた。意外にここに森田童子が愛される陰鬱さの神髄のようなものがある気がする。

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「ぼくたちの失敗」の中には、ぼく、君、あの子、ぼくたちの4つの登場人物がいる。「ぼくたちの失敗」は過去から現在へ、あるいは現在から過去へと時が流れていく。
例えば、ぼくの流れはこうだ。

ぼく(過去から現在へ)
君のやさしさにうもれていた弱虫→だめになった

ぼくの流れはとてもわかりやすい。失敗が明確にわかっている登場人物になる。ぼくは明らかに失敗している。

これは、君の場合は違う。

君(過去から現在へ)
ぼくをやさしさにつつむ→ぼくを忘れたかもしれないし、駄目になったぼくを見てびっくりするかもしれない

きみは、ぼくを見てびっくりするようになっているかもしれないし、もしかしたら忘れたのかもしれない(忘れたはチャーリーパーカーにもかかっているが、君のことを指していると解釈)。つまり君は駄目になっていないし、失敗していないのだ。


これは、あのこにも続く。

あのこ(現在から過去へ)
元気だろうか→過去は元気だった

あのこは、ぼくの中では「ぼくたち」に含まれない人物である。昔から元気で、恐らく今も元気であろう人物だ。ぼくとは違う人種であり、社会に適応して上手くやっていけるタイプだ。

残された登場人物は「ぼくたち」である。曲名にもなっているように、「ぼくたち」は失敗しているはずだ。しかし、歌詞を見るとそうではない解釈もできる。

ぼくたち(過去→現在)
地下のジャズ喫茶に変われないままにいた→?

「ぼくたちの失敗」の中で、ぼくたちが現在どうなっているのかは読み取るのが難しい。ただ読み取れる情報としては、地下のジャズ喫茶にはもうぼくたちはいないということだ。



君は失敗しなかったし、あのこはそもそも仲間ではない(余談の深読みとしては、「君」は「あのこ」と一緒になったんじゃないかとも解釈できる)。

そして、「ぼくたち」はもう地下のジャズ喫茶にはいない、何をしているかもわからない。つまり「ぼく」には「ぼくたち」が失敗したのか、駄目になったのかを判断できない。「ぼくたちの失敗」の中で、失敗したのが明示されているのは「ぼく」だけなのだ。

さらに解釈を進めると、「ぼく」は失敗したのが「ぼく」だけであることに気づいているのではないかと思う。気づいているのに、それでもなお「ぼく"たち"の失敗」と言っている。僕は過去に弱虫だったことに気づいている。しかし、駄目になった現在においてもやはり、弱虫なままだ。そして、おそらくそのことにも「ぼく」はもう気づいている。

森田童子はこの辺りをわかってやっているはずだ。
「ぼくたちの失敗」は「ぼく」が過去に弱虫だったくだりのリフレインで終わる。森田童子は、わかってやっているが批判的にはそれを展開しない。そう、「誰も」が失敗したのが「ぼく」だけであることに気づいている。しかし、歌物語の中くらいは「ぼくたち」でいたいのだ。

こういうところに、森田童子が愛される神髄があるような気がする。



文責 菅谷圭祐

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